音楽
tweetmeme_style = ‘compact’;tweetmeme_url=’http://dentaq.net/1801/html5%e3%81%ab%e3%82%88%e3%82%8b%e3%82%b9%e3%83%86%e3%83%83%e3%83%97%e3%82%b7%e3%83%bc%e3%82%b1%e3%83%b3%e3%82%b5%e3%83%bc%e3%80%81%e3%80%8cpattern-sketch%e3%80%8d/’;Check 音楽クリエイターからWebクリエイターに転身あるいは同時進行中の人、私も含め多く散見される。こういう人たちはexpress(表現)+ communication(伝達)が重要なのであって、その二つを実現する手段=触媒として、たまたま音で行うことを選んだというだけのことで、実は触媒が音だろうと画像だろうとテキストだろうとかまわない(実際にはそれらを組み合わせてwebで表現する「Web表現」というのが正しいだろう)。もし純粋に音楽を追求したいというのだったらそのままサウンドの追求に邁進するだろう(もちろん需給のバランスで本当は音楽制作を続けたかったがやむなくWeb制作に走ったという人も多いだろう)。しかしいざWebクリエイターとしてWeb表現を追求し始めると、音楽表現のノウハウが生かせる場面が非常に少ないことに気付きしばし悩む。Webは「目で見て動かして楽しむ」というプロセスが基本なのだ。そのようなWebの性質もあり、Web表現における音に関する仕様は視覚表現におけるそれより随分遅れていた。しかしここにきて、html5のオーディオ系の最新APIとクラウド環境が急ピッチで進化してきた。そのおかげでこのようなWebアプリケーションが実用レベルで作成可能になった。これはブラウザでシーケンスを組み完成させたらクラウド上でオーディオファイルを書き出し、それをe-mailやsoundclooudでシェアする、というクラウド型の音楽制作アプリケーションサービス。 http://patternsketch.com/
tweetmeme_style = ‘compact’;tweetmeme_url=’http://dentaq.net/1577/android%e3%81%ae%e9%9f%b3%e6%a5%bd%e8%a3%bd%e4%bd%9c%e3%83%84%e3%83%bc%e3%83%ab%c3%972/’;CheckかつてのQY70のような感覚で使えるAndroidアプリを求め、2つのアプリケーションを購入してみた。 Budgerigar QY70のように使いたいという目的はかなり満たしたMIDIシーケンサーアプリケーション。 GM準拠の127音色。MIDIのイベントリストの閲覧/編集やMIDIファイルを出力&メールで送信が可能。 ラフは携帯でつくり、自宅でDAWで仕上げる、といったことが可能となる。 ただし、ピアノロールでの入力は次に紹介するUloopsのほうが行いやすい。 Uloops Studio Pro QY70という感じではないものの(むしろFruityLoopsのよう)、エフェクターや音色の充実、打ち込みやすいインターフェイスなどにより、ついつい制作に熱中してしまうアプリケーションである。 mp3の書き出しは可能だが、midiデータの出力はできないので、DAWでmidiを編集したい、というようなことはできない。
tweetmeme_style = ‘compact’;tweetmeme_url=’http://dentaq.net/1558/salyu%e3%80%8c%e3%81%9f%e3%81%a0%e3%81%ae%e3%81%a8%e3%82%82%e3%81%a0%e3%81%a1%e3%80%8d%e3%81%ae%e3%83%9f%e3%83%a5%e3%83%bc%e3%82%b8%e3%83%83%e3%82%af%e3%83%93%e3%83%87%e3%82%aa%e3%81%ab%e3%80%81web/’;Checkプレイをクリックすると、ディスプレイが4つのウィンドウに分割され、それぞれのウインドウがそれぞれ別のミニマルなリフレインを奏で、それぞれのループが有機的に重なり合い、ひとつの曲となる。 もちろん、曲の頭から終わりまで4つのウィンドウが奏でる四重奏をじっくり見ても良いし、ウインドウを閉じると当然そのパートのビデオは消えるので、ループ・シーケンサーのトラックミュートボタンを操っているような感覚でDJ気分を楽しんでも良かろう。 ユーザーが新たなストーリーを作っていけるというインタラクティブ(双方向)性ひとつとっても従来の音楽PVとは全く違う体験をユーザーにもたらしてくれる。 ■salyu「ただのともだち」 http://www.salyu.jp/salyuxsalyu/musicmixer/ そして、このミュージックビデオについて調べるとほどなく、Googleから「Chrome Music Mixer」というサービスにたどり着いた。すでに素材となるビデオが用意されていて、ユーザーは好きなビデオを4つセレクトし、すぐにそれらをミックスした作品を再生することができる。salyu「ただのともだち」もこのサービスを応用し作られたもののようである。 ■Chrome Music Mixer http://www.morewithgoogle.jp/musicmixer/ 「Chrome Music Mixer」に実装された画面4分割を実装するJavaScriptのソース部分。縦横無尽なJSのイベントハンドラで操作されていることがわかる。 http://www.morewithgoogle.jp/musicmixer/js/chrometube.js 個人的には、かつて宅録少年だったころには、ラジカセ2台の多重録音から始まり、MIDI~ハードディスクレコーダー、DAWと変遷してきたが、原点は「音をいくつも重ねていける」ということに対する喜びであった。 時は流れいまや誰でも音のみならず映像をこんなに手軽にミックスし楽しめる時代になった。 これからのクリエイターは音と映像の垣根はどんどんなくなる。そして双方向性、ユーザー参加型の要素があるという点もWeb時代の大きな特徴。Webの進化が新たなコミュニケーションのカタチをどんどん開拓している。
Continue reading about salyu「ただのともだち」のミュージックビデオに、Web技術を使った双方向アートの新たなカタチを見た。
tweetmeme_style = ‘compact’;tweetmeme_url=’http://dentaq.net/1464/%e6%ad%a3%e5%b8%b8%e3%81%aa%e6%99%82%e4%bb%a3%e6%84%9f%e8%a6%9a%e3%82%92%e6%8c%81%e3%81%a4%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%ae%e9%87%8d%e8%a6%81%e3%81%95/’;Check以前のエントリーで「今は音楽の時代ではない」と書いたことについての補足。 この発言の真意は、「音楽は廃れてしまった」とか、「今の時代に音楽などやっても仕方がない」とかいう意味では断じてなく、歴史に習熟し、精確な時代感覚を持った上で音楽と付き合うことが重要である、ということを言いたかったのである。 時代によって、音楽の見え方は随分違っている。そのことが分かる例を挙げてみよう。 ドイツ・ロマン主義文学者のホフマンは「言葉が止むところで、音楽が始まる」という言葉を残し、どんな言葉でも届くことのできない至高の芸術=音楽へのオマージュを表した。また文豪ゲーテも同様に「建築は凍れる音楽である」という言葉をのこしている。 このように、この時代(18世紀後半ー19世紀前半)には「音楽的である」という形容が芸術作品に対する最高の賛辞であったことが窺える。音楽にとって極めて幸福な時代であったといえよう。 今の時代はどうだろう。槇原敬之さんが90年代のインタビューで、音楽はいつのまにか日常において心の汚れを落とす「歯磨きみたいなもの」になってしまったと形容している。これは言い得て妙だと思う。この発言のあった時期はちょうど小室サウンド全盛期ということもあるが、確かに音楽はいつの間にか、軽薄なカラオケ文化が中心となり、若者を中心としたストレス発散の道具のようになってしまった。ストレスを「心の垢」に例え音楽はそれを除去する歯磨きとは槇原氏らしい表現である。 今はそんな90年代ほど音楽にとって不幸な状況ではないと思うが、ゲーテやホフマンの時代の感覚には程遠い。 こうした現状をきちんと把握した上で、音楽と上手に付き合えるのであれば問題はないのである。 時代感覚を履き違えることの危険さを訴えたかったのである。 正常な時代感覚を持ち続けるためには、まず、歴史に学ぼう。そして社会としっかりと向き合おう。
tweetmeme_style = ‘compact’;tweetmeme_url=’http://dentaq.net/1433/%e5%83%95%e3%81%ae%e3%83%86%e3%83%ac%e3%83%93%e5%ab%8c%e3%81%84%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6%e3%80%82/’;Checkどうも最近テレビというやつと上手に付き合っていくことができないようなのである。 家族ができて初めて(というか改めて)気付かされたことだが、 おそらくおおかたの現代人はテレビというやつは机やソファと同じ家具の一つで、 「テレビがつねについていること」はもはや当たり前の前提として受け入れているのだろうなと。 食事をはじめ、家族が集う場所に必ず、音と映像によるBGとしてテレビというものはある。 しかしこのテレビというやつがついていると、どうも僕には気が散ってしょうがないのである。 子供の頃から兆候はあった。 食事中はもちろん、食事が終わってからもテレビを見続ける家族を横目に、 食事を済ますと自分だけすぐに自分の部屋に行き音楽を聴いたり楽器を弾いたり学校の勉強などをしていた。 ラジオや音楽がかかっているのは好きだ。だけど、テレビだとだめなのだ。 音だけならまだしも、映像が視界にちらついていて、どうして食事に集中することができようか。 映像と音が一緒になっているのがテレビの最大の利点であり、欠点でもある。 この二つが一緒になると、人の思考を支配してしまう。 自分などは、特に不器用で、マルチタスクが苦手で、一つのことに集中してしまうタイプなので、 すごくテレビに集中していってしまい、疲れて、時間が吸い取られていってしまい、この時間ドロボー、と頭に来てしまうのだ。 しかし、これではいけないのだと思う。 テレビという気の利いたBGを風景として扱う、横目で鑑賞しながら食事も楽しむ。 これはあるいは現代人に必須のスキルなのかもしれない。やれやれ。